盛田隆二
光文社文庫
初めて読む種類の小説だった。大筋では恋愛小説なのであろうが、介護やDVといった現代社会が抱える問題を詳細に描かれることで、甘ったるさはない。しかし、だからこそ、というべきか。自分がもしもその立場であったならば、という身につまされる思いにさせられる。誤解を恐れずにあえていえば、主人公の町田周吾と乾あかりを始めとしてどの人物も地味である。しかしながら、その「地味さ」こそが日常の究極のディティールなのではないか。退屈さと厄介さを兼ね備えた日常の諧調性。私もそうした日常に生きているからこそ、盛田氏の描く人物にも感情移入してしまうのであろう。
また、人間は感情の生き物である。単調な日常でありながら、複雑に心は動く。しかし、盛田氏の目は顕微鏡のようである。心のひだを観察し、その動きまで描きだすほどに。
日常は平和である。とはいえ、誰しも多かれ少なかれ悩みは抱えているものである。しかし、他人からみれば大したことはないのがまた常である。他人の悩みなんて、景色に過ぎないのである。
盛田氏の小説の凄さとは、登場人物に人生を語らせるところである。それはまるでその本人になって記憶を呼び起こすように、時にははっきりと、時にはあいまいに、その人にとっての傷の存在を否が応にも感じさせるようにして語られる。「二人静」ではその点が周吾の父親はっきりと現れていて大変興味深かった。
ストーリー展開も600ページを超える大作でありながら、片時も飽きることのない内容となっている。周吾とあかりに次々と振りかかる困難。それを格好良く乗り越えるのではなく、むしろ無様なままそのままに受け入れていくようにして物語は展開していく。その蓄積こそまさに我々の生きる日常そのものである。何かが起きても受け入れて慣らしていくしかない。
ふと私自身についても考える。周吾が抱えることになった親の介護の問題だって、いつ自分の身に降りかかるかはわからない。しかし、その時に自分に何かできるかといえばいきなりできるわけではない。今から何かするかといえばするわけでもない。でも、もしも自分が介護をすることになったらどうするか。まずは自分でやるしかないのだろう。無様なままに。そのままに。
今日も盛田氏の描く人物はこの日本のどこかで、息をして、日常生活を送っている。風景ではなく、傷を負ったひとりの人間として。そう思えてならない。そんな盛田氏の小説に拍手を送りたい。
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