ページ

2007年4月30日月曜日

差別の作法

ビートたけし・ホーキング青山の対談。
しかし、たけしの言葉ってのは「経験」と自分の思想ってのが密接に関わっていて説得力がある。
昔、身近に障害者がいてそれと対等にやりあっていたっていうのはなんとも差別問題を語る上でこれほどの説得力があるものはない。
ワイドショーに出てるエラソーな評論家だと単なる空論、しかも自分をいい人に思わせるようないやらしさがあるのに。
でもたけしが経験が特別豊富というわけではないと思う。
自分を客観的に把握し、記憶力が優れているからこそうまく引き出しとして利用できているわけだ。

2007年4月26日木曜日

友達がいないと不安だ症候群につける薬

齋藤孝著。
一気に読んだ。二時間くらい。
あれは三年前になるか。
教職でとっていた齋藤孝「教育基礎論」と同じ内容だった。
あの授業は毎回グループ組んで話すから知り合いが出来て嬉しかったな。
今やっても保守的になってるからあの時のようにはいかないかもな。
さて本文について。
いじめに関しての授業案が印象的。
いじめ事件から8年後インタビューしたテキストを使うやつ。
やはりお題目みたいに唱えるだけではいけない。
自分の身につまされるというか、やはり人間の弱さというか、簡単に答えの出ない形にしてもどかしくなる気分が一番必要だと思う。

真説「たけし!」俺の毒ガス人生

けっこう勢いで嘘ついている。
兄貴が東大とか。
確か大さんは明治。
どうやら最初の自伝のよう。
でも勢いがあって面白い。
記憶の鮮明さ、特に当時の息遣いが伝わってくるような描写はすごい。

2007年4月25日水曜日

テンション芝居

声量を出す、勢い、グルーブ感、、オーバーリアクション、メリハリetc
これらが良いとされる。
ひねくれているせいかこういった芝居見ると疲れる。
日常生活でもそうだが、無駄に元気な人(元気なふりをしている人?)を見ると疲れるのだ。
なんというかテンション芝居にはリアリティを感じない。
作られた感、人造的要素が強すぎる。
散文的よりも漫画的といったらよいか。
人間の機微、というか繊細な部分を落としがちである。
心の動きが大ざっぱというか単純すぎる。
しかも既製の価値観をそのまま使用していて創造性がない。
学生演劇になると、もっとひどい。
笑いに関してぬるい。
なんの芸もない。
笑われているだけ。
勢いでごまかす。
いや、すべて自己満でごまかしている。
周りを見ようとしない。
誰が演じても僅差はない。
閉鎖的な環境って態度にはうるさく、価値観への想像力が働かない。
無難な芝居は退屈です。
俺はもっと壊していきたい。
野心を持ってめいっぱい批判されてこそ何か生まれる気がする。

浅草キッド

ビートたけしの芸人生活の原点、浅草時代の物語。
何かできるという根拠のない漠然とした思い、世の中を面白くしてやるという野心がギラギラしてて心地よい。
俺も何かしたい。

下流志向

内田樹(たつる)著。
キーワードは時間性、等価交換、消費。
現在日本の働かない若者の特性を経済性という観点に着目し、問題点を指摘。
不快は高く売れるというのが印象的だ。
しかし結局、「師」の必要性など昔は良かった的な価値観の提示に留まり、人生を充実させるにはどうするかという根本問題には一切触れられていないのが気になった。

もっと気になったのは仙人の書き込み。
本文中の、親が金銭的貧しかろうとニートになる可能性はあり、それは一生懸命働くことに虚しさを感じるからだ、という筆者の指摘について、
「まあ俺は実際自分でバイトしないとあんま遊べんから、労働はすんなり受け入れたよ。」
と一家言。
いやー重みがありますね。
本人のみぞ知るという心のゆとりも感じられますね。
体験のにじみ出る言葉というのは説得力があります。
また自分らしさを求める現代の傾向について書かれた項では、
「中途半端な選択を自分の発露だと自己を欺くのは、誰しもが 行っていると思う。井の中の蛙」
とばっさり。
大学を含め日本の製品が世界標準に変わっていくことについて書かれた項では、
「G1の名称変更も仕方ないのか。雄二君は進歩主義かも」
とにわか知識の競馬と現代の若者を代表する雄二君の名が登場。

なんか三色ボールペンで線引くより鉛筆で線引いたほうがしっくりくるな。
ともあれ本はこうやって読むべき。
何も考えず流されて村上春樹を読んで好きとか言ってるやつみるとあきれちゃう。

2007年4月19日木曜日

菊次郎とさき

親を許せるようになってようやく大人だという表現が印象的。
俺はいつになるやら。
たけしが母の通夜の席で大泣きしたのをだいぶ昔ワイドショーで見たな。
この本読んでその母の凄さがわかった。
たけしは何やっても勝てなかったってのはどんだけの母親だよ。
最後の最後で昔たけしからもらったお金を積み立ててた貯金通帳が出てくるところ泣けるな。
父親はそうとうのダメ男だったみたいだけど、ちっとも恨みがましく書いていないとこがいい。
「菊次郎の夏」なんて親父の名前使った映画作ってるくらいだからね。
ほんとにたけしは人間がでかいよ。

阿修羅のごとく

男はこっそり浮気する。
女は耐える。
それだけのドラマだった。

観終わってからというものの劇中でずっと流れていたトルコ軍楽が永延頭の中を流れてしょうがない。

2007年4月18日水曜日

名前のない女たち

職業に貴賎あり。
なぜAV女優になるのか。
世の中不幸なことは信じられないくらいある。
それに比べたらAV女優なんて楽チンだ。
同情するのか。いや、してはいけない。
そこに責任のある愛情がない限り。

2007年4月13日金曜日

この国のかたち

日露後から太平洋戦争に至るまでの時代の狂気性。統帥権

ウェブ人間論

現在は時代の大きな転換期である。
そんな時代にどう生きるか。
という共通の認識のもとで交わされるウェブ人間論。
個がどう生きていくかという平野啓一郎と全体を俯瞰してて現状を把握して展望を述べる梅田望夫との視点の違いがより問題点を浮き彫りにしている。
どちらも頭がよく、互いの主張を理解していて、有意義な議論となっている。

2007年4月12日木曜日

たけしメモ

卒論のためのメモ。
卒論はたけし映画の青の時代についてやろうかと。


仁義なき映画論(文春文庫)より抜粋

この場であえて映画評論家といわれている人達の一部に対して、不満を言わせてもらうと、ガキの読書感想文じゃあるまいし、批評家というなら、せめて文体を持ったらどうだ。映画の観方は百人が百通りで結構だけど、配給会社宣伝部からもらった情報の受け売りでお茶をにごし、洋画コンプレックスの裏返しのような論点から、あんたらの好みで作品をかたられたんじゃ、映画好きが聞いてあきれる体たらく、せめて文体を持てって。

2007年4月10日火曜日

下流社会

なんか勝手に作り上げた神話って感じがするな。
社会の本質をついてない。
下流とみなしているものは結局、差別だもんな。
客観性に乏しい。
結局、そういった経済性だけで序列をつくって、人生の意味とか充実度といった難問を視点に入れていないところが一番のだめなところだ。
やはりどうしても下のものを設定して自分の優位を確かめているというさもしい根性を感じてしまう

寺内貫太郎一家

ひでえ親父だ。 すぐ怒って拳が飛び、女房をこき使う。 家はひっちゃかめっちゃか。 暴君。 でもそれは不器用な愛情表現。 こんなに心優しく、実は弱く、正義感の強い人はいない。 おばあちゃんの樹木希林めっちゃおもろい。 浅田美代子が口パクなのはご愛嬌。 静江さんと上条さんが仕事場で抱き合うあの回は泣いたな。 こんなに面白くて、奥が深いドラマは他にないよ。 ほんと。

合わせて向田邦子のエッセイ「父の詫び状」も読む。
主に向田邦子の親父について回想されて書かれている。
つまり、「寺内貫太郎」の元ネタ。
あまり連続ドラマは見ていないが(全部見たのは、金八の健次郎&上戸彩編、GTO、神様、もう少しだけ、ちゅらさんくらい)、「寺内貫太郎一家」ほど素直に笑えて、泣けて、感動したドラマは他にはない。
遊び心も満載で、作り手側が楽しんで作っている気がした。
演出の久世光彦が本の「寺内貫太郎一家」の解説でこう書いている。


テレビほど面白いものは滅多にあるものではありません。小むつかしい顔をして目を吊り上げたら、とたんにつまらない不粋なものになってしまいますが、思いつきを悪乗りしてそのままやってしまったり、罪のないいたずらを面白がってやるにはテレビはすてきな玩具だったのです。

これは俺が演劇をやる考えとも一致しているな。

2007年4月9日月曜日

東池袋大勝軒

☆☆☆☆
@吉祥寺。

先日惜しまれつつ閉店したラーメンのつけめん元祖といわれる東池袋大勝軒の分家だとおもわれる。ラーメンを食べた気がしないので、つけめんは敬遠しがちであるが、せっかくなのでつけめんを注文。驚くほどうまかった。だしは魚類。濃くてつけめんに最適。650円。

パンセとは

『パンセ』とは、「人間は考える葦である」という言葉でおなじみのパスカルの著書である。 ここで一つパスカルと『パンセ』についてまとめておこう。 以下、パスカルと『パンセ』についての記述は、かつてフジテレビの深夜に放送されていた「お厚いのがお好き?」の図書版を参考にした。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

そもそも『パンセ』とは、フランス語で「思想」、または「書き残されていた文章」という意味らしい。 敬虔なクリスチャンであったパスカルは神を信じない人を信仰の道へ導くための本を書こうとしていた。 しかし、本を書く前に死んでしまい、そのために残されていたメモを他人が上梓したものが『パンセ』である。
出版当時のタイトルは
「死後遺稿の中に発見された宗教及びその他の若干の問題についてのパスカル氏の思想(パンセ)」
という長ったらしいものであった。


『パンセ』は格言の宝庫である。
「クレオパトラの鼻がもう少し低かったら歴史は変わっていただろう」
「哲学をバカにすることが真の哲学である」
「人間はあらゆる職業に向いている。向いていないのは、部屋の中にじっとしているだけ」
などがある。


パスカルの賭け。
『パンセ』の中の一説にこんな言葉がある。

「神がいることに賭けたまえ」
パスカルが生きた17世紀は科学と理屈全盛であった。 そこで求められたのが神がいることの証明であった。 パスカルはデカルトのように科学的に神を証明することなどせず、「神がいることを証明することは無理」といい、続けて「神がいることに賭けたまえ」と呼びかけた。 パスカルは勝ち負けの確立を研究するためにルーレットを発明した人でもある。 その研究をもとに「勝ったらそう取り。負けても損はない」という究極の賭け方を探し出す。 そしてそれが神を信じることだとしたのである。
つまり、もし神がいれば永遠の幸福が手に入る。 しかしいなくても別に損はしないだろう、というわけである。以後、このような当たれば大きいが損はしないという賭け方を「パスカルの賭け」と呼ぶようになる。

2007年4月6日金曜日

ブログ

 「ウェブ進化論」を読んでweb2.0というもののを知る。そして、ブログというツールが人を知的に成長させうるものだと書いてあり大変な興味を持った。

 このインターネットというものは世界中につながっており、無限なくらいに開放的な空間であり、これはこれまでの歴史には存在しなかったものだ。誰かに自分の考えなり、文を読んでもらえるというのは俺にとっても極めて刺激的なことである。しかもそれが自分の全く知らない人にも読んでもらえるという可能性を秘めているのだから、これは使わない手はないと思った。誰も読まないかもしれないが、もしかしたら信じられないくらいの大勢の人間が読むかもしれない。そのダイナミズムが、ネット社会の、そしてブログの魅力だ。

 しかし、ネットやブログは玉石混淆状態だ。もちろんこのブログをなんとか「玉」にしたいと考えている。「脱力系パンセ」というタイトルをつけてはいるが、常に誰かに読まれることは意識しておきたい。ゲーテが「100万人の読者を想定して書くべきだ」みたいなことをいっていたが、質を高めるためにはやはりそういった意識が必要なのだろう。誰かに批判されるかもしれない、その緊張感との格闘が人を知的に成長させるのではないだろうか。

 まだ使い方がよくわからないので固いことを書いてしまった。早くゆとりをもって、本領(脱力系)を発揮できるようにしたい。