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聴講しようと思う。
今回で二回目となる。
第一回目はとても印象深く、その後も多大なる影響を受けたのだった。
大学卒業はしたが就職先のなかった二年前の春、友人原雄二の誘いで、辺見庸の講演会に参加した。
会場は九段の会館だったと記憶している。
原雄二くんがなぜ辺見庸の講演会に興味を持ったかは未だ謎である。
私もその時は辺見庸の本を読んでいなかったし、名前を知っているくらいだった。
ともかく、特に予定もなかったし、ジャーナリズムにもさして興味はなかったが、せっかくだしちょっくら覗いてくるか、といった気分で会場を訪れた。
死刑制度についての講演だった。
講演に先立ち、チェロのミニコンサートが行われた。
辺見庸はこれを死刑囚に捧げるといった。
そうして、講演が始まった。
途中休憩を挟んで、三時間くらいだったと記憶しているが、辺見庸は淀みなく話し続けた。
時折うまそうに水を飲んでいた。
辺見庸は徹底した死刑反対論者である。
世間、諧調性、スパルタクスをキーワードとして、自説を展開した。
身近な人間が殺されたら、その殺したヤツに死刑を望まないかい?という感情論で死刑を漠然と肯定していた私は、
死刑制度への無知を恥じ入るとともに、心が揺れ動いていった。
巧みな論理的裏付けであった。
阿部謹也の世間論、ダンサーインザダーク、鳩山邦夫元法務大臣のベルトコンベアー発言、とどめはマザーテレサの言葉の引用だ。
愛の対義語は無関心ー
この言葉ほど胸に突き刺さったものはない。
死刑は確実に行われている。
国家というシステムによって人の命が殺されていく現実。
国家による正当化された殺人。
抵抗できない個を抹殺する正義。
だが、それは遠くの出来事、他人事。
波風立てないように穏やかに、「日常の諧調性」の中で通り過ぎ行く。
それは正義か。
わたしは戸惑った。
でもしかし、とも思う。
自分にとって大切な人が惨殺されたならば黙っていられようか。
自らのうちに暴力性が湧いてこないだろうか。
それでも辺見庸は死刑に反対をとなえる。
辺見庸は数年前に倒れたせいで体にマヒがある。
死刑が執行されたのを知ると、発作が起こり体が硬直してしまうのだそうだ。
その姿、その姿勢に、私は死刑制度について考えざるを得なくなった。
その答えはまだ出ていない。
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