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2013年9月6日金曜日

マルセル・プルースト「失われた時を求めて」(集英社文庫・鈴木道彦訳)を読んで(P247まで)

「20世紀を代表する文学」として名高いマルセル・プルースト「失われた時を求めて」を読んでいる。
この本はジェームズ・ジョイス「ユリシーズ」と並んで、20世紀を代表する文学とされている。
が、実際に読んだことがある人には出会ったことはないし、私も数々の文学作品を紐解いてきたがなかなか手をつけられなかった。
とにかく長いのである。
私の読んでいる集英社文庫でも13巻もある。
源氏物語よりも、戦争と平和よりも長い。
一度読みだした本は最後まで読む、をモットーにしている私にとっても、読みだすのにも勇気がいる。
今回、一緒に読んでくれる仲間をみつけて(3名)読みだした。

読みだしてみたものの、とにかく、頭に入ってこない。
もはや文字を追うだけになっている。
面白くもなんともない。
物語もよくわからない。
かの有名な「紅茶とマドレーヌ」のくだりは、急に光が刺したように(実際に「光」というキーワードが現れる)読みやすくなったものの、すぐに章が終わってしまい、また暗闇に突き落とされる。
これでは、先行きが大変不安なので、訳者の鈴木道彦氏が著した「プルーストを読む」(集英社新書)をという新書をまず読んで、骨格というが世界観を手っ取り早くつかもうと同時並行で読み進める。

救われたのは鈴木氏の次の著述である(上記書P12〜13「はじめにー私はどんなふうに『失われた時を求めて』を読んできたかー)。
「頼れる翻訳はなかったから、辞書を引き引きたどたどしくこの未知の領域に入り込んで行ったのだが、手探りで数ヶ月のあいだ進んでゆくうちに、あるときから私は、自分がいくらか馴染みの世界にいるような気がし始めた。そう思ったのはおそらく、その頃に私が抱えていた素朴な問題と関係があったのだろう。それは二十歳前後の者なら誰しも考える類のもので、つまり「私」とは何か、という問題だった。
この「私」は一つの呪縛だった。どこへ行っても、何をしても、たとえ一杯のコーヒーを飲んでいても、私は、これを選び、これをしているのは自分だ、という感覚の周囲を堂々めぐりしていた。確実なものは、皮膚に包まれていたこの肉体の内部に起こることだけで、他人の存在や考えは理解できない世界に思われた。しかも、皮膚の内部の「私」の考えることははなはだ利己的で、どんなに立派な文句を口にしても、他人のために気を使っても、さらには一文の得にもならない犠牲的な行為を敢えてしても、そこにはかならずいやしい計算が働いており、それが自分には隅々まで見えてしまう。だから「自己愛」や「虚栄心」をめぐるラ・ロシュフーコーの『箴言集』の考察は、私には容易に理解できたし、その一方でこのように見え透いた自分の姿は鼻持ちならないものだったから、「自我は嫌悪すべきでものである」というパスカルの『パンセ』の言葉も、ぐさりと心に突き刺さるものを持っていた。
こんなふうに「私」をめぐって思考にもならない思考を繰り返していたも者にとって、プルーストが描く「私」の意識に入りこんでいくのは、たとえ簡単なものでなくとも、抵抗を覚えることではない」


私にとっては「私」とは何か、という問題は、大学時代にゲーテの「若きウェルテルの悩み」を読んだ時に直面したものである。
「若きウェルテルの悩み」は告白文学という形式をとっていることもあり、また許嫁がいる女性への叶わぬ恋をするというわかりやすい構図もあって、余計に身につまされた。
確かにプルーストを読んで、改めて「私」とは何か、という青臭い、そして現代的な言葉でいえば「中二病」のような自我の肥大が私に襲いかかってきた。
もう28歳だというのに。
文学は危険だ。
無意識に自分の自我を肥大させ、その成長痛のような「痛み」を伴う。
痛みを緩和させようと文学を求めるが、鎮痛剤としての作用は全くなく、かえって痛みを最大化させる。
痛みによって、ちっぽけな自己の存在を確認するかのように。

プルーストは自分にとってはあまりにも偉大で、巨大で、その価値が一向にわかる気配はないが、ぶつかり、その断片だけでも感じれたらよい。
そんなことを思う、夜中の酔いどれの落書きである。

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