2010年10月24日日曜日
2010年10月22日金曜日
血液型
正確に言うと、血液型性格診断「信者」が苦手である。
「信者」とは価値観にのめり込み過ぎて、他人にも知らず知らずのうちに押し付けてくる者のことである。
例えば私の母。
自分の血液型がO型のためか、一番いい血液型と思い込んでいる節がある。
「A型は神経質で細かいが、O型はおおざっぱでおだやか」
「A型とB型は相性が悪いが、O型は誰とでも付き合える」
との言い方をする。
私は小さい頃から頻繁に聞かされ、小学生くらいまでは洗脳状態になっていた。
血液型がわからないので(今も)、もしO型以外だったらどうしよう、と思っていた。
どこの家庭でもそうなのでしょうか?
2010年10月21日木曜日
2010年10月19日火曜日
2010年10月15日金曜日
演技論〜自分の舞台映えのしなさと絡めて〜
確かに私は大学では演劇学専攻で、演劇サークルに所属していた過去を持つ。
だからといって演技ができるわけではない。
学部はほぼ99%座学でした。
サークルでは作演出を担当したい人間でした。
これは言い訳。
自分の演技は一言でいうと、陳腐である。
舞台映えしないのである。
変にマジメだから、ムキになって取り組んでしまうとこがまた地味な要素。
ちなみに明日もあります。
*写真は同期の矢吹君。通称泣きの矢吹。
2010年10月14日木曜日
「行政」を変える!
都庁目指して一緒に机を並べた仲の吉田兄さんの運命の本。
村尾さんはあの日テレの夜のニュースキャスターである。
この村尾本は兄さんの1A合格の秘密兵器である。
というのは読む前までの印象。
読んでからの感想は、やはり兄さん実力そもそもあったんですね、である。
都庁の1A試験は大学院レベルで、
法律系なんか何枚も問題があって、理解すらできなかった。
財政学と行政学は問題文も短めで比較的手を出しやすかった。
記憶があいまいなので、ざっくりというと、
財政学は「市場の失敗と子育て支援」、
行政学は「行政評価」であった。
わたしは財政学で難しいことはわからなかったので、市場の失敗とは何かについて基本的な書いたりして、お茶を濁した。
順位は確か180番くらいで、一次試験で敗退した。
対する兄さんは、何たる偶然かこの「行政を変える!」を事前に読んでおり、当日も持って来ていた。
部屋の片隅に放置されていたとかでカビ生えてたとかおっしゃってました。
そのおかげで意外と書けた、と試験後振り返っておりました。
その勢いのまま、兄さんは次々と試験突破し1A合格を勝ち取りました。
ちなみに合格の瞬間に私は立ち会いました。
この時も兄さんはクールでした。
その体験から、この村尾本は行政評価の本かと思い込んでましたが、最初の方にちらっと出てくるのみであった。
兄さん、やっぱりすごいっすね。
私、いまだに日経新聞の面白さがわかりません。
(追記)
いいことが書いてあったので引用させていただく。
P167
私たちの心のなかには、三つの敵がいる。一つは、「私一人が行動しても、どうせ世の中変わらない」という、あきらめ感。二つは、抵抗勢力からの反発、反撃を恐れる気持ち。三つは、何もしなければ安逸な生活をおくれる、という誘惑。これらに打ち勝って、私たちは行動しなければならない。
悪人
吉田修一小説の映画化。
犯人のおばあちゃんがマスコミに追い詰められてしょげてるとこで、バスの運転手が、「ばあちゃんは悪くない。しっかりせんと」みたいなことをいうとことか、小説自体に繊細な情感が出ていてとても好きな世界観である。
ただ、この作品はどうしようもないくらいのダサさとか、みじめさがないと悪人が悪人たる所以が弱くなってしまうと思う。
決してつまらなかったわけではないが、むしろ二時間楽しんで観たのだが、出来すぎているという感が否めなかった。
こういう田舎とか土着の話の巧者は西田尚美とか青山真治とかがいる。
彼らに共通するのは時間のゆったり感、淀みである。
自分も東京とはいえ、そう地方と変わらない田舎の市に住んでいるのでこの感じはよくわかる。
この永遠にも続きそうな諧調性に対する人間の反応、抵抗が作品を形作るのである。
悪人でも、スポーツカーで飛ばすスピードとの対比があればもっと良くなったと思う。
と、エラそうな事を申し上げましてすみません。
嫉妬してるだけかもしれません。
松尾スズキの悪質商法の業者は超リアル。
樹木希林のおばあちゃんもだか(寺内貫太郎一家の時もですが)。
このキャストで消費者啓発向けのDVD作れたらとても面白そうだ。
2010年10月12日火曜日
柏原のすごさについて
山の神こと東洋大学の柏原竜二についてである。
彼の箱根駅伝デビューでは心の底からすごいと思った記憶がある。
箱根のあの山を、すたこらサッサと走るだけでも大変な事なのである。
ましてや彼は前半から飛ばしまくっていた。
後半の下りで早稲田の人に追いつかれてしまったけど、最後は根性で突き放していた。
すごく苦しそうに走ってて、正月にだらだら過ごしてる自分が少し申し訳なくなった。
でも、自分にも箱根で苦しんだ経験がある。
弥次さん喜多さんに憧れて(本当は人生に行き詰まって)、伊勢神宮までママチャリで行ったことがある。
神奈川県の中央林間から。
あれは、二年前の夏、相棒は同じく人生に行き詰まっていた(いる?今も?)
はらゆうじである。
この旅で強く記憶に残っているのは、箱根のつらさと、静岡の東西の長さと、コインランドリーで犬を連れたおじさんに蹴って起こされた事である。
要はこの旅は二度と繰り返したくない類のものである。
箱根の山はきつかった。
自転車に乗るのはもちろん、押して歩くのもこたえた。
感覚がおかしくなっていて、目では平行に見えても実は登りだったりする。
しかも山でくねくね曲がりばっかりだから先が見えない。
まるでいえでネトゲーばかりやっているはらゆうじの人生のようだった。
鈍い圧迫感を足に感じながらも自転車を押し続けなければ前に進めない逃げられない状況。
いや、逃げられるのかもしれないが、そういった決断すらめんどくさくなっていた。
人間、余計なことを考えすぎなのだ。
はらゆうじは山登りの後半には犬と会話しだした。
おばあさんと会話するおじいさんみたいに、一見怒っているのかのようにぶっきらぼうに話す姿が印象的だった。
これは朝方だった。
まだかよ、まだだよ、みたいな感じでなかなか終わりが見えない。
段々と傾斜が緩やかになって、下りがあったり、かと思えば登りだったりして、まだかよ、まだだを繰り返す。
我々は一晩かけて箱根の山を登り、早朝五時ごろに芦ノ湖に着いて寝た。
朝といえど、真夏の太陽の日差しはすぐに地面を鉄板状態にした。
休み場所はなかった。
自転車を漕ぐしかなかった。
そんな感じで伊勢まで行きました。
東京マラソン当選
風呂だけ入りに行くのではなく、ちゃんとジムでも走ろう。
明日から会費が月12000円くらいになる。
スタミナつけるためにもう少し食べよう。
まず、小出監督的な人を探そう。
ジムのトレーナーの大二郎さんを指名しようか。
あと入金しないと。
アートについての所感
求められるのはプロフェッショナル。
日本では美術とされるもの。
アートといった場合には、西洋の流れが下敷きにある。
日本人にとっては、真の意味で理解不能ではないか。
宗教観、生活とあまりにかけ離れている。
だから、アートは高尚なもの、難しいものといった印象を受ける。
輸入物である。
明治以後、日本におけるキリスト教がインテリ層を中心に受け入れられたことと関係しているかもしれない。
文学があまりアートとして認識されないのは、自分たちの言葉によって自分たちの精神を見出したことが要因ではないか。
土台のあるところに築いたもの。
しかしながら、本来的な意味でのアートの役割は、もっと範囲が広いと思う。
もっと人間の本質に関わる部分であると考えるからだ。
生活文化の上澄みの部分をさして、芸術文化と称するのではないだろうか。
人間の無意識の表象、可視化。
芸術と芸能の違いについて。
伝統芸能の先生、伊藤まきちゃんからならったこと。
芸術は鑑賞されるもの、芸能は参加するもの。
演劇を例にとる。
明治以後から額縁演劇。
舞台と客席、切り離されている。
静かに鑑賞。
考えれば考えるほどわからなくなります。
アートは定義を嫌うのかもしれません。
2010年10月11日月曜日
ゼミ合宿
ある決まりを破った時、「信じていたのに」といってとある教師泣いた。
毎回、自分の中での宿題が雪だるま式に増えていく。
事前準備にあまり参加できなかったので、当日は頑張ろうと心がけた。
2010年10月9日土曜日
日本消費者教育学会30周年シンポジウム
第一部、二部は公開講座である。
第一部にノルウェー・トーレセン教授の講演。
消費者教育をゆっくりとしたスピードで進む自転車に例えていた。
第二部はパネルディスカッション。
なかでも、内閣府の高橋さんが、EUの消費者市民社会には市民社会の土台はあるが、日本の場合はそうではない、という意見は興味深かった。
また三重県伊勢市の中学校の先生の実践を踏まえた報告も興味深かった。
その後の懇親会。
様々な方からいろいろと仕事に役立ちそうな意見を伺えたり、兼ねてからお会いしたかった伝説の都職員にお会い出来て誠に光栄。
刺激を多いに受けた。
明日は所有ゼミ。
しまった、立岩真也「人間の条件」を深く読めていない。
正式採用飲み
同期とは久しぶりに会い、三年目の他人には初めて会った。
同期の一人からはなかなかいい話が聞けた。
背負うものがある人間の使命感、責任。
現実とのギャップへの戸惑い。
二次会には行かないつもりだったが、当然のように行ってしまった。
飲み過ぎた。
タバコを吸ってしまった。
二日酔いというわけではないが、自分の身体がしっくりこない。
最近飲まなくなったせいもあるが、アルコールに対する身体の反応に変化が起きているようだ。
2010年10月6日水曜日
人格
でも、今日は英会話の日。
7月の下旬から週一で始めている。
今日からはプライベートレッスンになるようだ。
ティーチャーは、スッコットランド出身で、今は奥多摩に住んでいるデイビット(名前あいまい)。
黒澤明とか戦国時代とか好きなのだそうだ。
45分間。
フリートークした。
疲れていたため、頭が回転しない。
ましてや英語は苦手なので、今日は単語の羅列で全く文章にならなかった。
トピックは、消費者行政のこと、映画のこと、スコットランドの学校システムのこと。
消費者行政の話は、単語が全然出てこなくて、苦戦した。
映画も黒澤明、小津安二郎、北野武について話したが、どこがいいとか、他の映画に絡めた意見について英語で表現しづらく、消化不良。
スコットランドの学校のシステムは、ノートを使いつつ会話したので、意味が通じやすくなかなか興味深かった。
小学校は日本より一年早く6歳から。
でも、日本より一年長く7年間通うので卒業は同じ12歳の時。
中学校と高校は、スコットランドでは一緒でsecondary schoolというらしい。
最初の2年間はgeneralに学ぶ。
その次は5科目を重点的に学ぶ(デイビットはchemical,physics,geography,craft&design、あと芸術系の何か)。
2年後に試験がある。
大学は3,4年のようだ。
最後にテストがあるとか。
英語を話すと、自然と身振りが大きくなるし、ポジティブな人格になる。
話しているうちに元気になっていった。
ピカレスク 太宰治伝
文春文庫
文学者とは嘘つきだから、それを資料をもとに事実を検証して行くのはどこか野暮な部分もある。
ましてや、太宰と井伏という文学界の大物二人の姿を暴くとなれば、スキャンダラスでもある。
しかしながら、井伏と太宰を通じて描かれるのは世間対個人である。
猪瀬さんは前回観た芝居のアフタートークで「太宰治の『人間失格』は、『人間失格、でも自分だけ人間合格』」との興味深い説を唱えていたが、それを描いたところにこの著書には普遍性があると思う。
「家庭の幸福」という短篇を書いている。
…結びは「曰く、家庭の不幸は諸悪の本」
日常生活のみが目的化されれば、見過ぎ世過ぎ、である。太宰は「家庭の幸福」のなかに「津島修治」をおくことですでに示した。「家庭の幸福」に対抗するためには、自分はいつでも死ねる、という一言を持ち込む。すると世界はがらりと変わる。日常性に埋没しそうな卑小な自分を超えられる。この蠱惑的かつ危険な切り札は、おそらく芥川龍之介の自殺によって刷り込まれたのであろう。
2010年10月5日火曜日
アメのこと
アメの人望か、すぐにレスがあって結構人が集まっている。
ただし、休憩時間、開演前の楽屋では駄々をこねていた。
四半世紀
これは主観的なものだが、人間は誕生日周辺の季節を好きになるのではないか。
一番この季節が体に馴染む。
風が、散歩が、景色が、身体に心地よい。
具体的には秋の徐々に涼しくなっていく過程が好きである。
春は眠い。夏は暑い。冬は寒い。
それだけだ。
しかし秋は繊細だ。
微妙にではあるが、確実に変化している。
風の強さにも強弱様々なバリエーションがある。
秋ほど豊かな季節はない。
さてさて、約3ヶ月くらいをしめす秋という単位もそうだが時間には単位がある。
その中で、あまり使わなそうなのが、四半世紀という単位である。
単位なのに4という数字が入ってしまいぱっとみてよくどれくらいなんだか、わかりづらい。
しかし、この単位も人間にとって、一つの区切りになる単位だから存在するのだと思う。
25歳。
私にとっては就職の歳。
他人からみたらささいな事かもしれないが、早起きになった。
自分にとってはかなり大きな出来事。
波及効果として、仕事外でも活動的になった。
同級生たちにも次々と変化が起きている。
大学時代同じサークルの出身の劇団は突如、解散することになってしまった。
高校生の時に戯曲書いて賞とった友寄という主宰は沖縄へ帰ってしまった。
何があったんだ。
はらゆうじの初任給は3万円だった。
年金とかもろもろ払ったら可処分所得がないではないか。
あ、この人26だった。
園原氏は一ヶ月で三軒茶屋から護国寺あたりに引っ越した。
飯田橋にすればいいではないか。
そして、雨宮氏、
つづく。
iPhoneより送信
鼻炎
大学生の頃は朝だけ鼻炎っぽかったりさた。
友達の言えに泊まりにいった際の翌朝は鼻声だったり、鼻水がよく出たりして、「風邪ひいた?」と何回も言われたものだ。
最近は一日中鼻炎っぽい時もある。
もしかしたら鼻炎が慢性化したのかもしれない。
鼻炎はなかなかつらい。
気になって集中出来なくて、何も手に付かなくなってしまう。
ティッシュも道端で配っているようなものではすぐに鼻が痛くなってしまうし、なにしろ手触りが悪くゴミになった時の不格好な感じが嫌いだ。
半袖をきると特に鼻炎っぽくて、この夏は長袖で過ごした。
筧利夫がテレビで言っていたが、風邪は腕からひくらしい。
迷信だと思うが、心当たりがある。
自分の場合、腕から鼻炎になっている気がする。
年を経ることに、体調は変化していく。
鼻炎を治すには注射を打つらしいので、いやだ。
自然治癒力にお任せする、もしくは治すのをあきらめよう。
2010年10月4日月曜日
指針
先日正式職員になった記念に。
指針となるようなありがたいお言葉を、いくつもいただいた。
大切にしよう。
箇条書きで。
研修には出来るだけ参加すべし。実は研修をたくさん受けられる期間というのはそう長くはない。
経営学を学んで欲しい。組織と自分の関係を考える。今は組織を支える立場。主任試験に向けても組織支援力について考えて欲しい。
モチベーションの維持というかご自身で心がけていること。基本に立ち返る。基本は二つ。なぜ都なのか、都職員としてどうあるべきか。都は現場がありながらも同時に影響力も大きい。
地方自治法に公務員は必要最小限ののコストで最大限の効用をとの文言がある。民間は利益に縛られてしまうが、公務員は直接人の役に立つことができる仕事である。
二十年後の自分へ。
実るほど、頭をたれる稲穂かな
相談員試験、アドバイザー試験
消費生活専門相談員試験と消費生活アドバイザー試験である。
国民生活センターと日本産業協会という団体が運営している。
この資格をとれば、消費生活センターなどで消費生活相談員として働くことができる。
相談員になるには、消費生活専門相談員、消費生活アドバイザー、そして消費生活コンサルタントのいづれかの資格をもっている事が応募条件となる。
私は消費者行政を多角的に捉えたいという事とセンターで働くことを最大限に試験に活かせるし、仕事にも還元できるのではないか、と思い受験にいたった。
先日受験したのは一次試験で、合格発表を挟み、二次試験まである。
一次試験は以下の通り。
相談員試験は、択一と論文。
アドバイザー試験は、択一のみ。
相談員試験は問題を持ち帰れないのと、解答が発表されないのでわからないが、
アドバイザー試験を自己採点したところギリギリ合格点を上回っていた。
二次試験にすすめるのであろうか。
期待して論文対策しようか。
でもこれで落ちてたら悲しい。
とりあえず11月中旬に消費者力検定というものがあるのでこれを目指しつつ、アドバイザー二次を意識することにする。
ちなみにこの3つの試験の受験料を合わせると3万近くなる。
参考書代も2万近く投資している。
文字にしてみるとなかなか恐ろしい。
所有とアートについて
七月以来、久しぶりに集まった。
このゼミの参加者は博士、社長、アート団体関係者、定年退職された方まで幅広い。
私はアートに関する議論をしたいがために参加してますが、皆さんアカデミックだったり、経験豊富だったりするので、気後れしてしまう。
今だに所有とアートの関係について考えを深められないでいる。
どうも抽象的すぎて、イメージと実感がわかないのだ。
具体的なところから考えてみようと思う。
そもそも所有とはなんだろな。
恋人は所有できるのか、子供は所有できるのか。
これでは全く埒があかない。
では、これはどうか。
僕は基本的に本は買うようにしている。
買って読む場合に抱く感覚は明らかに図書館で本を借りる時と違う感覚である。
この違和感を言葉によって解明していきたい。
思いつくのをあげてみる。
買った場合は捨ててもいい。
買った場合は手に入るという満足感がある。
買った場合は線を自由にひける。
借りたら返さなくてはという心理的負担感がある。
借りた本には他人の余韻がある。
借りた本とはさよならしなくちゃいけない。
よくわからなくなってきたので考えるのをやめる。
今週末にはゼミ合宿がある。
大学時代にはゼミ合宿なんてなかった。
ちょっとあこがれていた。
私は合宿班でもあり、今日はミーティングがあった。
今週は課題図書になっている立岩真也「人間の条件」を読む。
2010年10月1日金曜日
ProjectBUNGAKU太宰治
アフタートークに猪瀬副知事。
個人的な体験もあり私の中では亀井静香と戦う怖い人でしかなかったが、なごやかな雰囲気。
しきりに褒めていた。
最後には、東京はアート都市、演劇などの文化を掘り下げて発信する、とおっしゃってました。
(追記)
谷賢一の「太宰治」はすごかった。
谷さんは大学の先輩ですが、もはや谷賢一と呼び捨てで呼ぶほうが自然のように遠くの人になった気がしました。
太宰の「人間失格」のフレームを活かしつつ、自分の中で消化しつつ表現する。
素晴らしい作家です。
葉蔵にはいろんな表情が見えた。
僕自身であり、太宰であり、ハムレットであり、谷さんであった。
演じたコロさんという役者も、宝塚の男役にも出てきそうなクールさ、吉本新喜劇に出てきそうな滑稽さを併せもっており、演技力が凄まじい。
谷さんはまた濃密な空間を作り出す優れた演出家でもある。
初めの方の薄暗い中、葉蔵が写真取られまくって、フラッシュで眩しいところでいきなりぐいっと世界観に引きこまれた。
ブラックホールのような吸引力。
その前の幕間の時点での、そわそわ感からして魅力的だった。
がらっと雰囲気が変わって、役者がストレッチとかして、さあ始まるぞ、っていう緊張感と期待感。
作品自体に疾走感があって、それが破滅へと突っ走っていく感じが、怖いんだけれども心地良かった。
と、谷さんの作品ばかり賞賛したくなるが、4作品どれも個性があってよかった。
「HUMAN LOST」のイメージの連鎖による不気味な雰囲気、ぽちゃっという金魚鉢へ落とす音が効果的。
「燈籠」の日本語の美しさと繊細さ、一番セリフが染みこんでくる。
「ヴィヨンの妻」の雨のシーンのエロティックさとラストのセリフの強靭さ。
4作品のどれもズバッと人間を捉えて離さない作家という生き物の得体のしれない生命力を感じた。
またうまく有機的につながっているんだ。
あの構成力も松枝さんの人間性がなせる技か。
このプロジェクトは太宰作品を知る入門篇としてもおすすめできるし、演劇公演としても面白い。
こういうアートプロジェクトが東京にもっとあるといいと思うし、自分も東京都での行政職員として文化振興を志す身なので何らかの形で携われたらと思う。